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伊集院光少年期エピソードwiki
このサイトは、伊集院光さんの少年時代~黎明期のエピソードについて記録していく趣味のページです。

黎明期

時効だと思うけど、昔ラジオで架空アイドルのイベントをやるのに、今世の中ですいている場所ってどこだろうという話になり、川崎球場の外野席に集合というのをやった。芳賀ゆいちゃんが来てるという設定で皆で野球を見るってイベントなんだけど、嬉しくなっちゃって、歌にあわせて手拍子したり、踊り出したりする人も出るわけ。無許可だから、あとでディレクターの安岡さんが関係者に謝りにいったりするんだけど、今思えば自分と6歳くらいしか年齢が違わないんだよね。20くらいの自分が、今度こういうことやりたいというと、20代半ばの安岡さんが、そういう危なっかしいイベントをたくさんやらせてくれたことを思い出す。 (@200706)

17歳の時最初にデモテープを持って行ったのはQRなんですよ。ひっでえできのやつw RT文化放送で伊集院さんの声を聴くのはとても新鮮で楽しかったです!ぜひ今度は赤坂に大竹さんをゲストで呼んでくださいませ!(@190118tw

ビートたけしのオールナイトニッポンがおわるときに、木曜一部を誰が継ぐかってところで、最終選考にのこったのが俺と古田新太さんだった。ビートたけしの後釜だと誰を持ってきても難しいから、いっそのことあまり有名じゃないやつを起用しようというのがニッポン放送の方針だった。すでに二部とはいえちょっと結果を出していた伊集院光(当時事務所なし)を推す派閥と、その派閥のトップだったディレクタ・プロデューサを嫌いっていう派閥があって、そっちの人たちが推していたのが関西の劇団で売り出し中の古田さんだった。古田さんは喋りはもちろん面白いし、でも伊集院の方は二部やってたからもう新鮮味ないんじゃないのって。で結果は御存知のとおり負けていくという・・・(@171225)

「岡村孝子でうどんの歌」はニッポン放送時代から使っている(@170703)

いまから25年くらい前、落語家をやめようと思って、先代の圓楽師匠にそれを言いに行く日に、言ったあとだったか言う前だったか忘れたけど、心を落ち着けようと中野をうろうろしてたら、その中野の映画館で自主制作映画をやっていて、それがすげぇ面白いな思ったら表に立ってた男がいて、面白かったですと言ったらその人が矢口史靖だった。それがきっかけで俺は矢口史靖監督の映画にも出ることになった。(@160425)

オペラの怪人時代に、オペラ替え歌をきちんとやるためにボイストレーナーまでつけていた。 僕の「アー」と先生の「アー」がどれくらい音圧が違うのかを確かめるために、互いの胸に顔をうずめながら「アー」(ビリビリビリー)「先生スゴイっすスゴイっす」って・・・なんだよその絵面。
その先生が課題曲に選んでいたのが『愛の賛歌』で、すごかったんだよその先生の気持ちの入りようが。 ニッポン放送の銀河スタジオで二人っきりで夜中の三時、あなたの、燃、える手で・・・二人で涙したりしてたからね。 「一生売れないだろうな俺」とか思いながら、ひげ面の先生と唇を接近させながらやってたあの感じ。 それ以来その歌のアレルギーで聞いたり歌ったりしてませんけど。
鈴木明子選手の『愛の賛歌』『オペラ座の怪人』というセットと、初っ端の失敗からよくなっていく感じや、鈴木選手の波乱万丈なスケート人生と自分とが重ね合わさったりして、そんなことを思い出した。(@140225)

ANN二部をやっていた辻仁成さんを見学に行ったんだけど、方向性が違いすぎて全然参考にならなかった。 連れて行ってくれたのは当時のディレクターで、ちゃんと勉強しておけっていうんだけど、俺をどうしたいのか全然わからないくらい格好いいの。 真夜中のサンダーロードでテディベアを抱きながら・・・みたいなきまり文句があって、そのあと逆Qって言って、ミキサーを指さすとど頭にサビが来る歌をかけるのね。 ・・・岡部さん今俺にそれやられたらやじゃね?恥ずかしくてできなくね?岡部ちゃん頼んだぜみたいな感じで。
当時サウンドマンっていうニッポン放送の子会社みたいなところに秋山さんっていう辻さんとツーカーのディレクターがいて、おそらく事前に秋山さんにだけフリートークの中身を話しておいてそれに合わせた曲を入れていた。 俺にはそれは予定調和のにおいがして、むしろ反っていくことに。(@130930)

ディレクターの安岡さんが怖かった。 おまえ一人で出来るんだろ、って皆いなくなっちゃって。(@130212オテンキのり・レコメン!)

職業病というか、痛いことが起こったら起こったでラジオで喋れるからいいかと思っちゃう。 オールナイトをやっていたときにベッドが不要になって捨てようとしたんだけど、廊下から降ろすより窓からぶん投げちゃえばおもしろいと思ってぶん投げた。 特に何も起こらなかったんだけど。(@120223webjunk)

ラジオを始めた19歳の頃、アイドルの名前を覚えろと言われて天井の全面にアイドルのポスターを貼っていたんだけど、 たまに画鋲が落ちてそれを踏むのが嫌になって全部剥がしたという記憶はあるのに、この間実家に帰ったときに見たら全部残っていた。 錆び付いた画鋲も刺さっていた。(@120206空脳)

20年くらい前に半分趣味で新宿の地下道で段ボールのおうちに住んでたとき、通りがかった元AV女優さんが僕が追いつめられてこういう路上生活してると勘違いして、伊集院さんは今こういう状態なんですか?何年か前AV女優になりたてのころラジオで元気づけてもらったことがありますっていわれて、いや実はそういうんじゃなくて体験取材的なことでやってるんですと言ったら、そうですか安心しました。 ・・・みたいなちょっとした交流があって、そのときに私が出てるんで見てくださいともらったレーザーディスクが捨てるに捨てられない。(@110627)

一人暮らしをしたのは割とおそくて、25くらいのときに当時やってたラジオのディレクターに「一人暮らしをしなくちゃ駄目だ」と言われて下北に。 家賃12万(@110622webjunk)

18の時、大磯ロングビーチ4日間のギャラが1万円だったなぁ・・・(@080616)

髭男爵を見ていて、かつてギャグオペラ歌手で売り出していたとき、知識がないから大変だったことを思い出した。 オペラ歌手というプライドの高い人が下らない仕事をやらされるいう一人コントの設定から生まれたんだけど、あの歌い方をベルカント唱法だという知識を仕入れてもそれ以降の引き出しがないから話が広がらなくて、すごく薄いキャラになって苦しかった。 カブキロックスの氏神一番くんとメイクを落としながら「悪魔はいいよなぁ元の設定とかないし。 江戸とかオペラとか本物があるからやらなきゃよかったな、怒る人がいるからな」と愚痴を言い合ってた。(@080519)

ギャグオペラ歌手時代、何を勘違いしたかオペラのCDのライナーノーツを書いてくれと言われて怖くなった。(@080512)

売れない頃、ニッポン放送の中でも非主流派のANN二部スタッフと何時かはこのメンツで一部やりたいねとか言ってたんだけど、あるときすげぇ子がいるってライブハウスに当時無名の裕木奈江を見に行って、今度この子に番組持たせたいねなどと思ってたら、倉本總かなんかに見いだされて映画に出始めたの。
さらに俺の頭の臭いを嗅いで「売れる匂いがしない」と言ってた宮本さんと森谷さんがANN一部にかっさらっていった。 この子すごいから二部で30分番組でもいいから一回やらせてくれないかと企画で言ったら知らねぇよこんな奴と捨ててたくせに、俺が見つけたとかいって裕木奈江のANN一部がドカーンと始まるわけ。
その頃俺はANN二部の定年である二年間近で、そんなこんなでノイローゼ気味で「俺お坊さんになるよ」と裕木奈江に言ったことがある。(@070903)

うちの親父とまだ交流があった頃、中山秀征は売れるがおまえは売れないと何故か急に言い出して、その理由は中山秀征には誰でも当たり前に思うことを当たり前のトーンで当たり前に言う能力があるという話をされて、そんな能力欲しくねーよと思ったことがある。(@070514新カテゴリー美女コーナー)

俺が初めてオールナイトニッポンをやったときのディレクターは高橋さん(@070409)

ニッポン放送を追われて最初に声を掛けてくれたのはTokyo-FM。次がTBS。 TFMは禁煙だったからやめた。(@070107秘密基地他)

こんなにどうしようと思ったのは、昔ニッポン放送でラジオ始まる直前にいたずらしてやろうと思って机の下に隠れたら、なんか伊集院が蒸発したって話がどんどん大きくなっちゃって、古株の報道アナウンサーが間を繋ぐってなっちゃったのを机の下でその人の膝を見てた時以来。 あんときは僕は20分間出られなかったんですから。(@060901爆笑問題と伊集院光のJUNK交流戦SP)

一人暮らし始めた25,6くらいの頃に買った洗濯機、ニッポン放送の偉い人と喧嘩した弾みで出たうんこつきパンツを洗ったNECのニューロファジーが壊れた。(@060724)

芸人になってはじめて書いたサインが鍋敷きにされたっていう思い出がありますから。17歳の冬の日に友達が集まって鍋食ってるとき。(@060703伊集院島)

三宅裕司のヤンパラの後番組の最終選考に内海ゆたおと二人で残ったが、ラジオ未経験のゆたお氏に上からいろいろアドバイスして、ラジオ始まったら1コーナーくらい出てよとまで言っていたのに自分が落選した。(@060626伊集院島)

有楽町を歩いていると昔のことを思い出す。 当時は事務所もなかったから、喫茶店で知り合いのディレクターからのポケベルを待っていた。 1101が伊集院で1242がニッポン放送みたいな。仕事拾ってたな~俺・・・。(@060515)

毎回「おはようございます」で始まる真璃子のオールナイトニッポンが嫌だった。 聞いたら「朝録音してるから」だって。当時異例なのよ全録音は。 どうしてなんですかって聞いたら「眠いから」。 こちらは若くて二部をやらせてもらってるから、深夜番組やってるんだ俺は!って思ってるのに・・・。 19年前なのにすげー覚えてるんだよなぁ。(@050606脳内商店街)

19歳のときに出たオーディション番組のときにミキサーをやっていたのは二見さん(@140721)

昔めちゃめちゃ若手だったときに番組のADがロケ先で万引きしてロケバスの中でそのガムを配ったりしてて引いた(@040308)

最後に実家に行ったのはディレクター柳沢がまだ大学生の頃。 うちのかみさんが本田みずほと仲が良くて、 D柳沢も本田みずほと仲が良かった。4人で行って、架空の友達の絵や自作予告日とか書いてある俺の部屋を見せたらかみさんだけが引かなくて、友達を一人書き足したりもしてくれた。その頃からかみさんが好きに。
当時月収100万くらいあったのに当時学生の柳沢に金を借りてた。そういえば最初の出会いのきっかけも金を借りたこと。 たまたま道を歩いていたら「僕伊集院さんのファンなんです」って「伊集院さん用」というカセットテープを取り出して渡された。 なんでこんなの持ち歩いてるのって聞いたら「なんか会うような気がした」って。気持ち悪っ!(@040202)

ニッポン放送を出入り禁止になった関係で渡辺くんとは離れていたんだけど、婚約発表が新聞に出た日に、渡辺くんがうちに来てうんこを漏らしたパンツ履き替えてそれを置いて帰った。(@021209)

ニッポン放送のMさんを六本木の居酒屋で軽く巴投げに(@021209) 森谷さんをぶん投げたのは六本木の居酒屋「一誠」。(@071022)

デーモンさんは素顔で来てたよ、ニッポン放送時代。人間の格好じゃなくて(@021118)

オールナイト時代の江尻さんというディレクターはトークバックで「ちんぽ」とか訳のわからないことを言う(@020930)

プラシドドミンゴのディナーショーを見に行った。9万5千円の席ね。 右がソニーの盛田会長、左が大屋政子。俺はジーパン。(@020630webjunk,@140225)

当時は光GENJIがすごい人気で、プレゼントを募集すると会議室が全部葉書になるくらいだった。 当時水曜1部の大槻ケンヂさんとふざけて「光ケンヂのANN」と新聞の番組欄に打ったら皆びっくりするぞと思ってやったら・・・びっくりしたよあのカミソリの数! カミソリを送るなんて当時でもコントでしかお見かけしない設定なのに日本全国にこんなにコント作家がいるのかってくらい。 俺が当時つかってたGilletteアクタスの刃があって便利だったんだけど。
そんなこんなの誼みで大槻さんがアルバムの曲に「これでいいのだー」という台詞を吹き込むのに起用してくれたんだけど、それが僕の生まれて初めてのレコーディングスタジオだったこともあって、緊張して全然うまくできなかった。
その大槻さんが15年ぶりに筋肉少女帯の記念アルバムを出すって聞いて当時のことを思い返していたら、当時さんざんだめ出しをされた理由にはたと気づいた。 (アニメのバカボンのパパ風に)「これで、いいのだ」って言えばよかったんだよね?って大槻さんに言ったら半分涙目で「今頃・・・?」と言われた。 当時メジャーデビュー1枚目か2枚目の大事なアルバムで凄い気に入ってた曲だったらしいんだけど、それをたまたま友達つながりで呼んだばかりに自分と違うイメージの作品ができるっていう・・・その嫌さを考えるといたたまれない。 ・・・思い出した!僕は当時オペラ歌手という設定で、大槻さんもそれを信じてた風でコーラス部分にも起用されてとったんけど、そこはまるまるカットされてた(@020519)

「第一回 ドキッ!盗品だらけのフリーマーケット」
7年前にニッポン放送の節丸さんというディレクターから借りたままのハンディカム、出ます!(@011210だめにんげんだもの)

自分がまだ出たてで給料月十万くらいで、誰も知らないラジオをやってたときに秋本治のアシスタントの人が聞いてくれてて、その縁で秋本さんに会いに行ってイタリア料理だかをおごってもらった。 そこでティラミスが出て、それが二年後くらいに流行った。その時食べたのとはぜんぜん違うものだったんだけど。(@011119ちびっこアニソン大集合)
そのあと、仕事場に行きましょうと言われて、離れみたいなところにあったスタッフさん用の部屋で未来を熱く語ったりした。 そしてそのときに紙にちょっと落書きを書いたら、次か次くらいの週に発売されたジャンプのこち亀の背景に俺の書いたイラストがさりげなく描いてあんのよ!だから・・・権利を主張して銭をもらおう! (@111221webjunk)

19歳のときニッポン放送で5分間のレポーターのレギュラーを始めた時も、タクシーチケットではなくて何故かハイヤーだった。 そんときお袋が家の前に止まってるハイヤーの運転手さんに親父が食ってるいい羊羹とか出してた。(@011029)

ラジオで初めてのレギュラーをもらったのは山口良一「進め土曜日行進曲」(@010618)

ニッポン放送時代、芳賀ゆいっていう架空アイドルの企画、、あの頃は良かったな・・・なんであんなになっちゃったんだろう・・・ が評価されて、 ラジオの優秀な企画に与えられる賞をもらって国内まず1位になって、そのあとドイツか何かで世界的な賞にノミネートされた。 で、ドイツでノミネートパーティがあるから自費で行ってくれと。当時ニッポン放送は月8万くらいしかくれてないのに。 で、行かなかったんだけど、トロフィーをもらった、ブロンズ像みたいなやつ。それもらった帰り道にどっかいっちゃった。首だけ残った。 (@010319)

五年ぶりにニッポン放送に行ったら、頭の匂いを嗅いで売れる匂いがしないといった宮本さんに出会って 「あ、伊集院くん、どうしたの」「オールナイトニッポンのオーディションを受けにきました」「いいね、それいこう」(@990712)
「売れる匂いがしねぇなあ」と言ったのはニッポン放送の宮本さん(@050221)
ニッポン放送開局60周年ということで呼ばれて久しぶりにニッポン放送に行った。上柳さんにこんなこと言わせちゃいけないんだけど、またニッポン放送に出てよと言ってもらって、出てよもなにも呼んでくれたらほんとに僕出ますよ、細かい経緯等を考えることももうやめましたし、みたいな会話もできていい感じに盛り上がって嬉しかった。
で、その出演が終わって帰る寸前に顔を出したのが当時俺がもめた二人のうちの一人の宮本さんという人で、この人は僕が初めてラジオ生放送これからやろうって時に、たぶん局長になる直前くらいだと思うんだけど、夜中に酔っ払ってニッポン放送に来て、「はじめまして伊集院光といいます・・・」と挨拶しかけたところで頭をガシッと掴まれて酒臭い息でクンクンクンと嗅がれて、「売れる匂いが全くしねぇ」と言って去っていった人。
そこで忘れようとしてた「細かい経緯」が急にわーと蘇ってきたんだけど、でもちょっと思ったのは、こういうことをずっと公言してるわけだから向こうも会いづらいはずなのに、生放送出演後にわざわざ顔を出してくれたんだから、変な雰囲気になるのはやめようと思ってたら宮本さんが、「伊集院くんさ、ウィキペディアにさ、俺が伊集院の頭の匂いを嗅いでさ、売れねー匂いがするって言ったみたいなデマが書いてあるんだけどさ、あれおまえどうにかしろよ」って言われて・・・それは上から下まで100パーホントのことだよ!デマぢゃねーよ!それが火曜の帰り際の会話。
こっちも46だから、だからもう出ないとは思わないけど、すげぇなこの人って。この人は伝説が多くて、あいつだけは許せないって人が、俺なんかのクラスじゃない人にも何人かいるような人なんだけど、またすごいのは、ああいうこと言われて20年も経ったら普通改めちゃわない?ぜんぜん改まらずにそのまま偉くなってること。そこでもしいい人になってたら、たとえば一番ずるいパターンで言うと、あの事まだ怒ってるかもしれないけど、ああいう風に言ってやる気出させるのも上のもんの仕事だったりするからね、とでも言われたら、うわー俺何年も何年もすげー子供っぽことしてたなって困っちゃうけど、でもあの感じ・・・すげーなこの人って。
あ~よかった、なんか。ニッポン放送ですごくいい雰囲気になって、そのあとこのラジオで「いい感じで話せて、また仕事やろうよって話になったよ」なんて言うのもさ、ちょっとコウモリっぽいじゃんか。それも何かなと思ったけど・・・宮本さんありがとう。しばらくTBSに俺、居る。しばらくここでお世話になるわ。あんたすごいよ・・・(@140721)

昔ANN二部をやっていたときに一部が大槻ケンヂさんで、ハガキの宛先を「水曜オールナイトニッポン・馬鹿な方」でどっちに届くかやったね。仕分けは担当者じゃなくてアルバイトの人がするから、アルバイトの感覚で決まるの。(@980720あそび)

ラジオのハガキの仕分けをレコード室でやってたら、管理の人だと思われて CHA-CHAの兄貴分のジンジンや中村由真のテレカとかを沢山もらった。(@980713)

ANN時代の企画で野球チームを作ったんだけど、近所のガキが「こいつ昔阪神にいたんだってよ」と連れてきた親父が、どっかで見た顔だなぁと思ったら去年の日本シリーズで逆転満塁ホームランを打った長崎で、みんなで土下座して謝った。(@970714)

ニッポン放送時代にゲストに呼んだタランチュラをスタジオ内で逃がしたことがある。そのまま不明に。(@970303)

数年前にニッポン放送でラジオの行く年来る年をやらせてもらったんだけど、行く年来る年は全民放が共通の放送で、文化放送でもTBSでも同じ番組が流れるんだけど、放送局は各放送局が毎年持ち回りで担当するわけ。 で、その年はニッポン放送の番で、さらにコカコーラの一社提供で放送したわけ。全ての放送局でコカコーラのCMが流れるわけ。 それなのにその打ち上げで、コカコーラの偉い人が来ているのに「これからダイエットペプシを飲んでダイエットしたいと思います」と、ホントに言っちゃったんだよ。(@961202)

師匠に内緒でニッポン放送でラジオをやっていたときに、局のロビーに自分の顔写真が載ってるポスターが貼られていたんだけど、 ある時、師匠の楽太郎とニッポン放送にいくことになって、渡り廊下みたいなところでいよいよこのまま進むとそのポスターが師匠の目にとまるというときに「実は・・・」と打ち明けた。 まあおまえならいろいろやってるだろうとは思っていたと言われた(@?)

ニッポン放送時代、金髪のイケメンを期待していた出待ちの女性が涙目で去っていった。(@?) はいからさんが通る

 

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